
こんにちは、のりゆきです。
今日は、「努力に関する話」をしたいと思います。
というのも、「努力は裏切らない」という言葉を聞く度に、
間違った努力をした結果、努力の闇に飲み込まれて、病んでいく人達を数え切れないほど見てきたからです。
僕は精神科病院での実習経験があるのですが、
(この話はいずれします)
そこで見た光景や、精神に病を抱える方々と触れ合って感じたことは、
多くの人が「努力家」だったことでした。
努力家っていうのは、
なんでもかんでも自分一人で抱え込んでしまい、
自分の力だけで問題を解決しようと試みる人の事です。
もちろん、すべての人に共通している、とは断言はできませんし、
あくまでも、僕の主観による部分は大きいのですが、
総じて言えることは、「努力家である」という印象でした。
言葉を言い換えれば、みんな真面目であった、ということです。
それが、きっかけとなるボタンを踏んでしまった結果、
爆発したイメージです。
僕らの生きる世界は、
光と闇があるのですが、
これは自然界だけの話じゃなくて、人間にも言えること。
人間には、表の自分(建前)と、裏の自分(本音)が存在しています。
ちなみに、僕たちは表(本音)と裏(建前)を上手に使い分けることで、
人間関係を築いていきます。
これが、表(建前)だけ、もしくは裏(本音)だけしか表現できない場合は、
良好な人間関係を築くことは難しくなります。
時々、「言いたいことを言えないこんな世の中はポイズン」と言わんばかりに、
裏(本音)で生きる俺様、カッコイイ!とドヤ顔している人もいますが、
自分では気づかないだけで、周囲に敵を作っていたりします。
周囲に敵を作る生き方は、自分のあらゆるチャンスを奪うことにもなるので、
なぜか、もう少しで上手くいく、というタイミングで災難に見舞われることが多々あったりします。
例えば、初対面の人相手に、
太っているな、と感じてもそれを言葉にして伝える人はいないと思いますが、
本音で生きると、その心の声が出てしまうことになります。
「あなたってデブですよね?」と。
それって、わざわざ相手に伝える必要性がありますか?ということです。
自分の本音を言えばなんでもかんでもイイわけじゃなくて、
大切なことは、相手の立場になって物事を想像する力です。
つまり、あなたってデブですよね?と言われたら、
自分はどう感じるのか?ってことですね。
たったそれだけのステップを踏むか踏まないかで、
相手の自分に対する感情は180度変わってきますので。
ただ、今の世の中を観ていると、
明らかに表(建前)の人が多いと感じるのも事実です。
SNSでの発信なんて、
いかに他人よりも目立つか?ということばかり気にして、
嘘偽りのキャラクターを作り上げる人たちもいますので。
実績がない、けれど実績がある、ように見せたり、
言葉と行動が一致していなかったり、
キラキラ輝く明るい部分しか見せなかったり・・・
僕は、会う人会う人に思うようにしていることがあります。
それは「この人もトイレでうんこするんだよなぁ〜」ということ。
どんなに着飾っていようが、
どんなに綺麗な言葉を使おうが、
どんなに派手な実績を持っていようが、
どんなに美人だろうが、
うんこしない人間はいないんですね。
僕たちは、どうしても目に見えることだけに意識をとらわれてしまい、
鵜呑みにしてしまう傾向がある。
だから、コロッと騙されてしまう人がいる。
それは、表だけしか見なかった自分にも責任があり、
裏を見ようとしなかった自分の問題でもある。
そう考えることができたら、
結果はまた違ってきます。
同じように、努力に関しても、
なんでもかんでも自分一人の力で頑張るのは賢いとは僕には思えません。
なんのために、こんなに人間がいるんだよっ!と思います。
例えば、病気になったら、病院に行きますよね?
適切な治療を受けたら治るのにも関わらず、
自分だけで治そうと努力する。
これって、明らかに努力の方向性を間違えてしまっています。
「努力」が好きな人は、みんな揃いも揃って、
同じような性格になっていくんです。
どういう性格か?というと、
冗談の通じない立派な真面目な人になる。
そして、自分は頑張る性格だから、他人にもそれを強要してしまう。
つまり、「俺はこれだけ頑張っているのだから、お前も頑張れよ!」となる。
俺ができたんだから、お前だってできる、と考える。
僕は、自分ができることであっても、
それが、必ずしも他人にもできるとは思っていません。
逆に、他人が簡単にできることであっても、
僕にとっては難しいこともあるんです。
中国雑技団のような、
体をグニャッと曲げることなんて僕には到底できません。
ですが、真面目な努力家は、
私は簡単に体を曲げることができるんだから、
あなただって簡単にできるわよね?
という無言の圧力を押し付けてしまうんですね。
まあ、真面目で努力家の人って、隙とか空白の余地がないんです。
だから、いつも怖い顔をしています。
それで、人生がうまくいっている、という実感があるなら、
そのままの生き方で問題ないと思うのですが、
そんな人はほとんどいないと思っています。
努力が好きな人は努力をしたらいい。
けれど、努力が嫌いな人は努力を辞めたらいい。
そう僕は考えています。
だって、人生って努力するためにあるんじゃない。
楽しむために人生があるのであって、
努力するためなんかじゃないんです。
この順番を間違えてしまうから、おかしなことになる。
努力したら、いずれ報われる、と毎日体に鞭を打って生活するのが、
果たして幸せなんだろうか?
それよりも、今日はこんな遊びをしようと目を輝かせて、
目の前のことを楽しむ方が幸せなんじゃないだろうか?
本当は誰だって子供の頃に経験していたはず・・・
純粋に目の前のことをただただ楽しむ、
まさにあの頃の感覚を忘れてしまったのが、
真面目な努力家です。
報われる努力もあるし、
報われない努力もある。
頑張らなくても結果が出てしまうこともあるし、
頑張っても結果が出ないこともある。
僕は努力家が嫌いなのではなく、
努力することが唯一の生き方である、と思い込んでいる人に向けて、
実は、努力しない生き方もあるんじゃないか?
そう提案したいんです。
そもそも、努力という言葉ですが、
嫌いなことに対して使うイメージが僕にはありますから、
努力=本当は嫌なんだけど仕方なく・・・という印象があります。
なので、努力する、という言葉をあまり好きにはなれません。
例えば、どうぶつの森にハマっている人いますよね?
検索したら、本当にクオリティの高いものがヒットして、
驚きを通り越して、感動してしまうわけですが、
あの人達って、努力していると思いますか?
努力して徹夜してると思いますか?
僕には努力しているようには見えません。
確かに寝る間も惜しんで作業に没頭はしているかもしれません。
ですが、それは本人がしたいからしているだけであり、
誰からも強要されたわけでもなければ、イヤイヤ仕方なくしているわけでもないんです。
根本にあるのは、好き、という気持ちです。
周囲から見たら、寝る間も惜しんで作業していたら、
努力しているように見えるのかもしれませんが、
本人は努力している感覚など微塵もなく、好きで好きで仕方がないんです。
何かで結果を出す人って、
やっぱり、この感覚がないと厳しいんです。
厳しいというよりも、
無理に結果を出してしまうと、
その反動が必ずやってきます。
そして精神を病んでしまう、という負のサイクルに突入します。
精神を病んでしまう根本は、
子供時代に周囲に植え付けられた、努力したら報われる、という、
根拠のない価値観です。
努力したから報われたんじゃないんですよ。
好き、という根本があったから、
結果的にうまくいっただけのことで、
努力は関係がない。
ある程度の結果は出せても、
大きな結果までは出すことができない。
これが努力の正しい考え方だと僕は思っています。
今の自分の人生が、楽しくない、というならば、
1度、努力に対する間違った価値観が頭の中にないか確認してみることが大切です。
価値観はすぐには変えることはできなくても、
もしかして、自分は間違っているんじゃないか?と思うことで、
自分の頭で考える時間を作るきっかけができます。
そして、いずれ古い価値観は崩壊して、
新しい価値観へとバージョンアップさせることはできるんです。
僕も、価値観が破壊されては創造されてを繰り返してきました。
だからこそ、言いたいんです。
「努力なんて辞めてしまえ!」と。
努力することよりも楽しむこと。
これが、今の僕にとっての新たな価値観であり、
楽しむことを最大限にするためには、頭も使うし体も使うし、時間も使うんですね。
ということで、
是非、新しい価値観を採用してもらい、
古い自分から卒業してもらえたらと思います。
それでは、今日はこの辺で。
ありがとうございました。
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