
「パニック障害」を僕は持っている。
パニック障害とは、急に不安な気持ちに襲われて動機がしたかと思えば過呼吸になっていく。
そして、意識がそのまま遠のいて行き、死んでしまうんじゃないか?という猛烈な恐怖に襲われる。
酷いと、外出もできなくなる。
外出先で突然発作に襲われたらどうしようと不安になる気持ちから、外出が怖くなるからだ。
ただ、現在の僕はほとんどその症状は出ない。
なので、個人的には完治したと思っている。
そんな僕が、どうパニック障害と向き合い克服してきたのか?
思えば、パニック障害のきっかけとなったのは、高校生の頃だった。
思春期の男性にはあるあるだが、とにかく自分が異性(女性)からどう思われているのか?気になって気になって仕方がなかった時期だ。
ただ、これも度を超えると心身共に病む要因となる。
僕の場合は、他者からの評価、視線、思惑、自分がどう他人の眼に映るのか?
好かれているのか?
それとも嫌われているのか?
気になって気になって毎日、神経をすり減らしていた。
神経って、使うと疲れると表現することがあるが、ゲームで例える体力ゲージのようなもので、使えば使うほどゲージが削られていく。
ゼロになると、病気になるのだ。
普通は寝たら回復するのだが、僕の場合はずっと他人からの視線を意識していたため、神経が休まる時間が全くなかった。
結果、僕はパニック障害となった。
パニック症状が出てからというもの、外出することが怖くなって、発作に襲われたらどうしよう?という不安な気持ちで一杯だった。
将来、就職する際にも、パニック障害があることはマイナスにしかならないと思った。
というか、女性とまだ付き合ったこともないのに、このまま引きこもりコースになるのか、と思うと人生に絶望しかなかった。
そんな僕のターニングポイントは、意外なところにあった。
たまたまテレビでKー1の試合を見たことがきっかけだった。
当時、テレビで活躍していたのは魔裟斗選手。
特に、興味があったわけじゃなかったけど、何かに一生懸命な姿がただただカッコよかったのだ。
僕には一生懸命に何かに没頭できるものは何もなかったからこそ、何かに没頭して夢中になって、ひたすらトレーニングに励んで真剣に試合をする姿に惹かれたのかもしれない。
カッコ良さとは、常に見た目だけだと高校生の頃の僕は思っていたから、常に外見を意識していたが、実はカッコ良さって外見だけじゃないのかも・・・と初めて気づくことができた。
何かに没頭している時って、そもそも他人の視線が・・・とか、他人からどう思われているのかな?なんて考える余裕はない。
なにせ、没頭しているのだから。
つまり、僕が他人の視線や評価ばかり気にしていたのは、それだけ人生に対して真剣に生きていなかった証拠でもあったんだ。
そこで、僕はもっと自分の好きなことに時間を使いたいと思って、読書の世界にハマっていった。
読書している時は、他人の視線など気にせず、本の世界に入ることができた。
パニック障害をはじめとする精神疾患は、病院での治療がもちろん優先されるのだが、薬に頼るだけでは根本的には解決しない。
生き方、もっと言えば思考に原因がある。
偏った思考が招いたタネが、パニック障害になったんだと僕は思っている。
僕の場合は、極度な他人からの視線や、評価を気にするあまり発作に繋がってしまったわけだが、そもそもなぜ、それほど他人の視線や評価が気になるのか?突き詰めていくと、嫌われることに対する極度の恐れがあったから。
つまり、他人からどう思われているんだろう?という背景には、相手から嫌われたくないという気持ちが隠されていたことに気づいた。
でも、僕は病気になって思ったことがあった。
そもそも、パニック障害になってまで他人の視線を気にする必要性ってあるのだろうか?と。
実際、他人が1番関心あるのは自分だ、という研究報告もあるくらい、人は自分以外には無関心だったりする。
自分の口にできたニキビの方が、他人なんかよりもずっと関心があるということ。
要は、自分が思うほど他人は、僕のことなど興味もなければ、関心すらなかったわけだ。
それを知ったら、急に僕の中の感情がサーっと波を引くように穏やかになっていった。
「馬鹿らしい」そう思ったんだ。
他人にどう思われるか?気にするために僕は生きてるわけじゃない。
別に、どう思われても、それは相手による選択の自由だし、たとえ嫌われてもそれは縁がなかったと思えばそれで解決じゃないか?
そもそも会う人会う人、全員から好かれることなどできやしない。
どんなに立派な人、キリストやお釈迦様でさえ彼らを嫌う人たちは一定数存在していたのだから。
他人の軸(評価)で生きると、他人に気に入られる生き方を、自分がやらざるを得なくなる。
それは、例えるなら操り人形のようなもの。
普段の自分とは別の違う自分を演じて、それに好感を持ってもらっても、それは実際の僕じゃない。
実際の僕じゃない、演じた僕に好意を寄せた相手はもちろん、僕自身も不幸にしかならない。
それは本末転倒だ。
そう思ったら、他人軸じゃなく、しっかり自分の軸を持とうという気持ちになった。
自分の考えがしっかりしていないから、いつまでたっても、他人の視線ばかり気にする生き方しかできなくなるのだ。
「自分の考えを持つ」
世間的に正しいとか、正しくないとかは関係がない。
僕はどう思うのか?
それが自分と向き合うということであり、向き合った結果、本当に自分にとって大切なことは何なのかが見えてくる。
少なくとも、僕にとって病気になってまで他人の視線や評価を気にすることは大切ではないことは分かったので、ある種、悟りのような「自分は自分」「他人は他人」と分けて考えることができるようになったんだと思う。
そう考えることで、自分と他人との違いに対する価値観に関しても、そう思う人も世の中にはいるな、という1つの価値観を学ぶチャンスに変えている。
できることなら、病気なんて御免だ、と多くの人は思う。
ガンになったら、なぜ自分が???と、自暴自棄になる人の気持ちも理解できる。
けれど、そこにはきっと、病気からの何かしらのサインなり、メッセージなり、意図が隠されている。
今のままだと確実に死ぬよ、という天からのお知らせ。
僕はそう感じたからこそ、色々と自分の中で改善すべき点を探し出した。
いずれにせよ、パニック障害だけじゃなく、人生には思いもしなかった出来事の遭遇することが多々あるが、それは全てがチャンスだと捉えることができれば、そこから這い上がることだってできるんだと僕は学ぶことができた。
病気になってただただ悲観して沈むだけの人生よりも、病気になったからこそさらに強くなって這い上がってくる人生の方が魅力的だと、個人的には思っている。
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